奥磯 栄麓

略年譜

昭和5年9月3日
 稲垣錦荘(南画家)と静雪(美人画家) の三男として京都に生まれる。

昭和26年3月
 京都市立美術専門学校
 絵画科卒

昭和29〜31年まで
 自由美術協会出品

昭和34年
 岐阜県可児郡可児町久々利大平に開窯

昭和62年9月11日
 永眠

陶歴

昭和34年
 可児郡可児町久々利大平に開窯
 
以後
東京(日本橋三越)・ 大阪(難波高島屋)
名古屋(オリエンタル中村、丸栄)
岐阜(丸物)
など百貨店を中心に個展
五都展29〜33回展に出品 食器展に出品
現美展1〜2回展に出品

昭和58年
 村越画廊個展
昭和60年
 かね吉栄画廊個展

奥磯栄麓略年譜
昭和5年9月3日
 稲垣錦荘(南画家)と静雪(美人画家) の三男として京都に生まれる。

昭和26年3月
 京都市立美術専門学校
 絵画科卒

昭和29〜31年まで
 自由美術協会出品

昭和34年
 岐阜県可児郡可児町久々利大平に開窯

昭和62年9月11日
 永眠

文化財、及び著書関係

昭和37年
 美濃焼元祖、加藤景豊の墓発見
昭和40年
 景豊奉賛会で顕彰碑建立
昭和42年
 「景豊顕彰碑」論文を陶説で発表
昭和45年より
 岐阜県可児町文化財審議委員
昭和46年
 「美濃焼」光琳社より出版 (PDFにて閲覧)
昭和48年
 東洋陶磁学会美濃大会において、
「美濃青磁・美濃染付」発表
昭和49年
 岐阜県笠原町妙土窯で、室町期緑釉発見
昭和51年
 「美濃の古陶」光琳社 共著
 世界陶磁全集桃山編」小学館 共著
昭和52年
 「美濃窯業思考」出版
 東京都教育委員会による、上野美術館にて講演
昭和54年
 「瀬戸美濃古染付と石皿」里文社 共著
昭和55年
 可児町史・窯業史編執筆
昭和59年
 「藍織部と石皿」りーち出版
昭和60年
 「藍織部とその周辺」里文社
文化財、及び著書関係

大亀禅語 第百九十八話 風癲漢      :昭和四十四年八月 旧百九十六話

前略
 奥磯栄麓という今年四十歳の人が、この寒村大平に十二年前から住み着いて窯を築いて志野を焼き出したのである。時代の変遷は何もかも変えていって、陶器を作る窯も、昔風から今風へと変わっていった。今は電気窯あり、プロパン窯あり、誠に手軽に焼かれているが、桃山以前は穴窯と言うて、千年も前からの伝統そのままの不経済極まるものであった。」しかし今に残されている志野織部は、この穴窯で焼かれたものであった。
 栄麓君は四百年前に返って穴窯を築いて、元亀天正頃の志野を焼かんとしているのである。進歩発達というものは誠によろしいものであるが、残念ながら自然より遠ざかっていくのであるから、即ち科学化であり機械化であるから、物そのものの中に内在する妙という物がなくなっていく。
 奥磯君はこれを憂いてこの大平に住み着いて、十年、昔ながらの土工暮らしを敢えてしているのである。名の利というものを一切離れ、近代というものから遠ざかり、せばいせばい我が道をまっしぐらに歩み続けている。自然、その焼き成りは実によろしいものがある。まだまだ未完成であるが、将来このまま進んでいくと、いつか末代に残るものが得られると私は思うた。
後略

大亀禅語 第百九十九話 志野を訪ねて三度 :昭和四十四年九月 旧百九十七話

前略
茶器というものは洗練に洗練を重ねられたものであって、私は人間生活上美の極致と考えている。志野はそこへいくと実に美しいのである。
 七時、寺を出て、九時半、彼の窯について十二時まで今度の出陳品六十五点をみた。まあーまーよろしいと思うた。五、六個箱書きをした。勝尾青龍洞君はしきりにその辺りの土、一名もぐさ土を称するのを採取しておられた。長石と称する上釉用になるものも拾っていられた。黄土と称する絵を描く土も沢山露出している。
 私の小僧さんは行基焼きの破片を拾っている。そうして窯場に捨ててあった彼の茶盌を一個拾い上げて悦んでおったら、奥磯氏曰く、それは捨てたもので、そいつはいけません。これを差し上げましょう、と立派のを小僧がもらった。その前の捨ててあったのをその場でガチンと地上にぶつけて砕いてしまった。私はおしいなーと思うが彼はそうであった。
 一窯を五晩焼き続け、一窯に百個ほど入れて何個取れるか。年何回の窯の火入か。何遍成功するか。大変な努力である。彼は大平のターザンと人々が言う。気が鬱してくれば山のてっぺんでドナリ散らしている。